場所:東京大学駒場キャンパス18号館2階院生作業室(→キャンパスマップ)
- 発表者1:寺沢拓敬(東大・D3):「英語教育学」の知識社会学
日本における「英語教育(英語の教授)」は、近代前後から行われており、その点で歴史は古い。一方、「英語教育学」、つまり、「学問」としての英語教育研究の提唱は、1960年代まで待たなければならない。
「学問」としての「英語教育学」は、とりわけ英語教育関係者の内部で、その重要性が強調されてきたが、一方で、その「学」の成立根拠に関しては等閑視されてきたきらいがある。ある意味で、現在の英語教育学の「学問たるゆえん」は自明のものとして理解されているとさえ言えよう。
こうした状況の帰結のひとつが、「英語教育学」という名の下で行われる知識システムの再生産(既存の知識システムによって、知識生産のプロセスが水路づけられ、新たな、しかし、同構造の知識の産出が繰り返される)である。こうした再生産は、“英語教育学は「科学的」かつ「客観的」な「真実(truth)」に則った「中立的」・「自律的」な知識にコミットしている”という前提に依拠することでスムースに行われる。しかしながら、科学哲学/科学史/知識社会学が明らかにしてきたように、学問集団に受け入れられている「知識」が、その学問の「内在的原理」で、完全に説明できることはまずない。現存する知識システムは、学問的探求の結果であるだけでなく、さまざまな政治・経済・社会的要因(e.g.イデオロギー、学会政治、産業・経済構造、研究機関など物理的・制度的条件)によって生み出されている。その過程には、必然的に、「そのほかの知」(e.g.現場の知)を排除していく働きが存在する。
本発表では、「学」の起こり(1970年代)以降、英語教育学において何が「知識」として認められてきたかを通時的に検討する。そのうえで、(1)「現場の知」および、(2) 他領域の教育研究(e.g.教育学、教育社会学、教育哲学)の「知」と比較することで、英語教育学の「知」の特異性・独自性―さらに言えば「奇妙さ」―を描き出す。
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