場所:東京大学駒場キャンパス18号館2階院生作業室(→キャンパスマップ)
- 田畑きよみ(東京大学大学院修士課程)「教科書に見る明治初期(M1~M10)の英語教育事情」
問題の所在
明治維新により日本は海外に門戸を開き、「和魂洋才」を旨として欧米諸国の文物を積極的に取り入れることにより殖産興業、富国強兵を実現しようとしたことは言うまでもないが、このような社会的背景の下で、明治初年から「英学」を10歳から12歳の児童に教える営みは始まっていたことが資料から裏付けられる。
小学校を全国各地に設置するようにという明治政府からの要請が各府県に出されたのは明治2年のことであったが、京都市では、すでにその前年の明治元年に64校を設置している。また、青森県など、県財政が豊かでなかった県では明治五年の「學制頒布」(当時の用語による)後に徐々に小学校を設置していった県もある。
このようにばらつきはあるものの、明治初年から設置された教科目数の少ない公立小学校成立より英語が教えられていたという事実のもつ意義は歴史的に、また英語教授法の観点から大きな意義をもつものと考える。なぜなら、明治初期の小学校英語指導の実態を解明した先行研究が見当たらないからであり、かかる実態が書誌的に解明されれば、現在の小学校の授業への英語の正式科目としての導入に関する現在の論議に役立つものと考えるからである。
さて、当時の英語教授法は、体系的に確立されたものではなく、日本に在留する外国人(Native Speakers of English)に学んだ日本人が教師として授業を行うケースが一般的であったが、日本人の手で書かれた教科書を使用し、その兄弟弟子に学んだ教師が英語を教えていたケースも存在する。この教科書を分析することにより、明治時代にどのような英語教授法を教師たちが目指していたのか、またどのような授業が行われていたかを推測することは可能であると考える。
したがって、本発表では、そうした教科書の一つ、1873(明治6)年に出版された『英国単語篇』を分析する。著者は奥村春斎という緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ蘭医である。この教科書は愛知県の第九中学区内四十三番小学明月清風学校で6級(7歳)用教科書として採用された。さらに、奥村の出身地である高山で最初に設置された小学校である煥章学校でも教えられた。この煥章学校で英語を教えた中川八郎は元紀州藩士で箕作秋平及び福沢諭吉の慶応義塾で英学修行を行った人物である。三府、五港でもない高山において英語教科書もほとんど無く、英語教授法も未だ確立されていない學制頒布後まもない時期にどのような英語教授を行ったのであろうかというのが、私の研究課題である。
- 関口貴央(東京大学大学院修士課程)「書評:山田・大津・斎藤『「英語が使える日本人」は育つのか?』(岩波ブックレット、2008)」http://www.amazon.co.jp/dp/4000094483
※寺沢注:発表2(書評)は、ゼミ参加者が同書を読了済みであることを前提として行われます。可能な方はあらかじめ目を通してからお越しください
0 件のコメント:
コメントを投稿